〈孫録〉三重吉の孫、鈴木潤吉氏からのご報告
A Report from Junkichi Suzuki, Miekichi's Grandson
2024年10月25日
豊島区立郷土資料館を訪問
郷土資料館開館40周年を記念して収蔵資料展「としま文学プロムナード」が開催され、観覧してきました。豊島区を四つの地域に分け、それぞれに居住していた主だった作家たちの貴重な資料が公開されていました。
三重吉一家は『赤い鳥』初期の約10年ほど、東京都豊島区の目白(現在の町名)に暮らしていました。展示では『赤い鳥』や『鈴木三重吉全作集』の原書をはじめ、三重吉の弟子であった坪田譲治の『びわの実学校』などのほか、深澤省三の『赤い鳥』のさし絵、さらに江戸川乱歩、稲垣足穂、「ぽっぺん先生」の舟崎克彦、詩人の田村隆一などの資料が一堂に展示され、大変見ごたえがありました。
特筆したいことは、三重吉の展示コーナーに『アサヒグラフ』(第3巻第9号、大正13年8月27日発行)に掲載された「鈴木三重吉氏とお子さん」という記事※が展示されていたことです。その記事にある写真には乗馬服姿の三重吉と長女すず、長男珊吉が写っています(写真右)。実は私の実父・珊吉の遺品の中に複製された写真だけがあったのですが撮影されたいきさつがわからずじまいでした。今回その写真が『アサヒグラフ』に載っていたことがわかり、この記事のために撮影されたのだと(あくまで憶測)、ようやく腑に落ちた次第です。
写真のすぐ下にある三重吉自筆のメモには、郷土資料館のスタッフの判読のおかげで、「すず子九つ 珊吉七つ 豊島庭苑 附属の二年生と一年生」、その下の「鈴木三重吉氏とお子さん」という印刷文には《「四年以来、乗馬を続けてゐるお蔭で以前に比べて、胸囲一インチ半、腹部四インチも増しました。痩せて青かつた顔も赤鬼のやうになりました」と目白の森に「赤い鳥」となつて隠れた三重吉さんは微笑された》と読めることがわかりました。
今回の展示とは別に、豊島区には「池袋モンパルナス」や「アトリエ村」など芸術家たちの活動拠点が点在し、かの手塚治虫・石ノ森章太郎らの「トキワ荘」(「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」にて再現)もあったわけで、こうしてみると日本の近・現代文化の一翼を担ってきた多様な文化人が戦前・戦後をとおして、これだけ多く豊島区に居住し活動していた事実には目を見張るものがあります。
企 画・実施に関わったスタッフの皆さん、素晴らしい資料展を有難うございました。
※上記『アサヒグラフ』は豊島区所蔵。本サイトでの当該記事の掲載は朝日新聞社より承諾済みです(承諾番号24-2850)。朝日新聞社に無断で転載することを禁じます。
2024年10月13日
漱石山房記念館〈特別展〉観覧
今回の特別展「『三四郎』の正体 夏目漱石と小宮豊隆」は漱石の弟子であった小宮豊隆の生誕140年を記念して開催されました。「『三四郎』の正体」というのはなかなか凝った展名だと思いましたが、そのとおり三四郎のモデルとなったといわれる小宮豊隆の人物像を限られた展示スペースとはいえ、大変よく描き出していて今回もまた勉強になりました。
そして、小宮の末娘の秋山夏子さんに何年かぶりに会場でお会いできたことが何よりよかったです。ご高齢とはいえ、お声もはきはきとお元気で、展示を一つ一つ見ながらお父様の思い出を淀みなく語ってくださいました。
ご存じのとおり、小宮豊隆を三四郎、与次郎を鈴木三重吉をモデルとしたといわれていますが、本人たちもそれを意識して、三重吉は与次郎辞退宣言の旨の葉書を小宮に送っています(現物はみやこ町民族博物館所蔵。そのうち見に行きたいと思います)。
考えてみるに、小宮は実際に三重吉とは大親友であったわけで、三重吉にとっては家族と同様の兄弟分とみていました。その関係を漱石は’見抜き’、三四郎と与次郎の関係にうまく反映させたのだと私は思っています。
小宮が渡欧する際に開かれた送別会の寄せ書きが展示されていましたが、三重吉は「All or Nothing」と書いていて、私は初めて祖父直筆の単発の英語文を見ました。このときの思いを天界にいる祖父に聞ければと思います。
展示会の一角に小宮と三重吉の関係を偲ばせる展示コーナーがあり、秋山さんとじっくり観賞しました。(写真右は小宮豊隆と三重吉。秋山様からいただいた写真のコピー)
まだまだ大量の未整理の資料が小宮の故郷、みやこ町歴史民俗博物館に所蔵されているとのことで、未発表の貴重な資料が今後発見されるものと私は期待しています。
漱石山房記念館の今回の特別展の企画・実施にご努力されたスタッフの皆様に感謝いたします。
愛知県半田市 新美南吉記念館訪問
2024年9月26日
言わずと知れた『ごん狐』の新美南吉。『赤い鳥』に『ごん狐』はじめ童話が4編、童謡が多数掲載されました。その記念館を七年ぶりに訪れました。常設展は、彼の生い立ち、生涯、作家たちとの交流、『赤い鳥』とのつながり等々を彼の手紙、ノート、メモ、日記をとおして満喫できる素晴らしい展示で、今回も勉強になりました。『ごん狐』を書いた南吉は当時18歳でしたが、すでに中学時代からその創作力を発揮していたことをあらためて認識しました・・やはり南吉は天才だったのだ!と。
今回私にとっての発見は、南吉が童話を読み語ることを重んじたことです。「紙で読んで面白くない童話は口から聞かされても面白くない。口から聞かされてつまらない童話は紙で読んでもつまらなくないはずがない。」と彼は述べ、中学時代から作品を読み聞かせることを実践していたそうです。
しかも、大人の小説もそうあるべきだと主張しています。「物語り」の原点へ立ち戻れということだと思います。
実は 今回、記念館を訪れようと思ったきっかけは特別展『本に押し潰されて死ねば本望です』のチラシを見たことです。そのタイトルのとおり、南吉は和書洋書を問わず大変な読書家であったことがそのコーナーの展示でよくわかりますが、なんといっても異色なのがゲーム『文豪とアルケミスト』との提携で催されたことです。特別展のシンボルとなっている和装の少年が目を引きます(写真右)。よく見ると、背中におんぶされているのがごん狐で、なんと腕に抱えているのが『ごん狐』の掲載された号の『赤い鳥』ではありませんか。三重吉もこういう形で『赤い鳥』が出現したのを天界から覗き見て、隣に一緒にいる白秋と南吉に「ほ、ほう!愉快じゃのう!」と喜んでいるのが聞こえてきます。
福岡県 豊島与志雄と林芙美子
2024年7月24日~26日
豊島与志雄は『赤い鳥』に18編もの童話を寄稿し、三重吉が豊島の童話を高く評価していたことが窺えます。『天下一の馬』や『天狗笑』は名作として教科書にも戦後に掲載されました。
今回は福岡県朝倉市にある豊島の故郷を訪れました。豊島の研究家であるN先生のご案内をいただき、豊島の生家(写真左)や朝倉市図書館などを巡りました。ここの豊かな自然が豊島童話を育んできたことを認識した次第です。
その後、小倉にある北九州市立文学館を訪問し、所蔵されている
三重吉が林に昭和11年前半に宛てた書簡3通を特別に閲覧させていただきました(写真右)。
三重吉が林芙美子に『赤い鳥』に童話を寄稿することを依頼した書簡、そして2通はその後の原稿の催促です。なんとか書いてもらうよう創作の助言も書いていて面白いのですが、行間からは三重吉がある意味必死で依頼しているその緊張感が伝わってくるようでした。
三重吉は相当に林の童話に期待していたものと感じられました。最終的には昭和11年8月発行の『赤い鳥』に『蛙』が掲載されました。文学館ではちょうど「竹久夢二展」をやっていましたのでこれも参観しました。「夢二式美人画」など勉強になりました。
今回も多くの方々のお世話になり、感謝の限りです。せっかくなので、大宰府、元寇資料館、小倉城などにも寄ってきました。
野上弥生子の郷里
大分県臼杵(うすき)
2024年5月23日
野上弥生子は『赤い鳥』に5編の童話を寄稿しており、そのうち2編は連載ものです。大正8年8月号の「通信」欄には弥生子が「赤い鳥音楽会」を参観した感想が載っています。実は、『赤い鳥』以前から三重吉は弥生子の作品を高く評価していたことが研究者によって指摘されています。『赤い鳥』の「標榜語」にも夫の豊一郎とともに赤い鳥運動の賛同者として名を連ねています。
今回訪問したのは、弥生子が15歳まで生い育った大分県臼杵市にある生家で、その一部が「野上弥生子文学記念館」(写真左)となっています。
生家は江戸時代創業の蔵元で、現在も小手川酒造として営業している老舗です。
多くの貴重な資料が展示されている中に部厚の画帳があり、漱石の書や龍之介の河童のスケッチなどの中に、なんと三重吉による「四人会飲」と書かれた書もありました!(写真中央)弥生子の弟・小手川金次郎が画帳に文化人による書を書いてもらうように東京にいた野上夫妻に頼んだものです。
記念館もさることながら、臼杵の町の歴史に触れることができたのは大きな収穫でした。キリシタン大名の大友宗麟が築いた臼杵城、キリシタン文化および南蛮貿易の一大拠点であったことや、
『坊っちゃん』の里、松山を訪問
2024年3月27日~29日
三重吉の恩師であった夏目漱石、機会があれば漱石の史跡を私は表敬の意を込めて訪ねるようにしています。今回は『坊っちゃん』の舞台となった愛媛県松山市を2泊の旅程で訪れました。
松山中学跡など『坊っちゃん』関連史跡のほか、
漱石が逗留している間、子規の句会が開かれた愚陀仏庵跡など、そして漱石が好んで通った道後温泉本館にも行きました。(写真左)道後温泉はその昔、怪我をした白鷺が湧き出ているお湯に足を浸したら完治したという伝説があるそうです。130年前に建てられたこの施設は驚くなかれ現在もなお営業を続けています。補修工事中でしたが、裏から中へ入ることができます。せっかくなので、日帰り入浴してきました。このお湯に漱石も浸かりながら、のちの『坊っちゃん』の構想を思いついたかもしれないと想像して、なんとも感慨深いものがありました。
しかし、今回特筆すべきはなんと言っても松山市立子規記念博物館で、正岡子規の生涯そして子規と漱石の深い交流が伝わる素晴らしい展示に圧倒されました。 二人の天才が意気投合し互いに影響し合った様が大変心に響きました。三重吉の文壇デビュー作「千鳥」が掲載された「ホトトギス」発祥の地が松山であったことも初めて知りました。
記念館は午前9時から営業しますが、その時刻まで金属のごっつい柵が下りていて、その柵をよく見ると「ホトトギス」の名前がデザインされていました(写真右)。実は営業が始まる直前に行ってみたら守衛さんが教えてくれたのです。
史跡を案内そして解説してくださった松山の坊っちゃん会の会長様と理事のお二人のご厚意に改めてお礼を申し上げます。帰りがけに松山城を参観。天守閣など大変見ごたえのある城郭でした。
発見 ! 三重吉の『古事記物語』の英訳原稿
2024年2月22日
三重吉の『古事記物語』が「Japanese Ancient History」というタイトルでアメリカで1922年に英訳されていました。その英訳原稿を所蔵している米国シアトルのワシントン大学図書館からその序文を入手しました。本当に『古事記物語』の英訳なのかは確証がなかったのですが、今回その序文にそうであることがはっきりとに述べられていました。三重吉の作品が外国語に翻訳されていたということ及びそのことが一次資料によって確認できたのは私の知る限り今回が初めてだと思います。
訳者は小池恭(こいけ・きょう)という島根出身の医師で、1916年にアメリカのシアトルに移住し、開業医師の仕事のかたわら写真と俳句を趣味にし、特に彼の写真の趣向はPictorialismと称され、アメリカを始め国際的にも高く評価されました。また俳句については、現地で俳句会も立ち上げ、彼は「ホトトギス」にも投稿し掲載されました。
写真左:小池恭 出典:Nicolette Bromberg Shadows of a Fleeting World: Pictorial Photography and the Seattle Camera Club (2011)
https://content.lib.washington.edu/exhibits/shadows/ (2024年2月22日閲覧)
実はこの小池は三重吉と親しく交流があり、三重吉の書簡集には小池氏宛ての手紙が21通も掲載されています。アメリカの児童雑誌などを三重吉に送り、三重吉はその中のいくつかの童話を再話して『赤い鳥』に載せています(これは私がその原本を入手し確認しました)。逆に、三重吉は小池に『赤い鳥』を送り、今回判明した『古事記物語』のほか、小池は『赤い鳥』に掲載された多数の童話を英訳し『赤い鳥』以外にも日本の文学作品も英訳しています(ワシントン大学図書館の特別資料目録で確認しました)。タイプ打ちされた原稿は綴じられて冊子にされ、同時に彼の主宰した日英併記の同好会誌「濃淡」にも掲載されました。三重吉を支えた友人たちの中にあって小池恭はまさに異色の人物であったといえるかと思います。
この資料の入手に至るまで貴重なご助言をくださいましたワシントン大学図書館のT女史に感謝申し上げます。
写真右:『古事記物語』の英訳原稿 (シアトルのワシントン大学図書館Special Collections所蔵)、序文の4ページ目。下の段落より三重吉の紹介と5ページ以降、三重吉の文章の引用などが続きます。
菊池寛の郷里・高松を訪問
2024年2月21日―23日
菊池寛は『赤い鳥』の趣旨に賛同した作家として名を連ね(標榜語 第1巻第6号)、「一郎次二郎次三郎次」を始めとする11編の作品を寄稿しました。今回は彼の故郷香川県高松市に赴き、菊池寛記念館を訪れました。ちょうど生誕135年を記念して菊池寛の企画展も開催されていて、彼の業績と人となりがわかる見ごたえのある展示を参観できました。彼は文芸のマルチプロデューサーであったことをあらためて深く認識した次第です。展示には『赤い鳥』のほか、菊池寛が創刊した『小学生全集』(昭和2年)もあり、当時の彼が芥川龍之介とタグを組んで大衆への児童書の普及に精力を注いだことが実感できました。丁寧にご案内・解説くださった学芸員さんに感謝いたします。(右へつづく)
市内の中央公園には菊池寛の座右の銘「不實心不成事 不虚心不知事」の碑があり、これはまさに三重吉と同じ精神であると思いました。近くにはなかなかリアルで迫力のある「父帰る」の家族の像(写真上)がありました。
そのほか、せっかく高松に来たのだからと金刀比羅宮(“こんぴらさん”)にお参りに行ってきました。事前知識なく行ったら、うわーっ、参道は800段近くも上っていく石段!さすがきつかったですが、展望台からは讃岐富士も望める絶景。ついでに丸亀市へ足を延して天守閣が残る丸亀城も見学。足にマメができましたが、本場の讃岐うどんも味わい、今回も充実した小旅行でした。(了)
寺田寅彦の郷里・高知を訪問
2024年1月24日―26日
寺田寅彦記念館、県立文学館などを見学、寺田家の墓参もしました。物理学者であった寅彦は一方で夏目漱石の最古参のお弟子さんでもありました。三重吉は『団栗』を代表とする寅彦の随筆を称揚し、三重吉が漱石に次いで尊敬した人物です。
寅彦は『赤い鳥』に八條年也のペンネームで「茶碗の湯」を寄稿しています。
上の写真はオートピア高知図書館前にある寺田寅彦像。「ねえ君 ふしぎだと思いませんか」(台座にある文)と私たちに語りかけています。 (右へつづく)
高知県立文学館では、三重吉宛ての寅彦のハガキ、そして三重吉が寅彦の三女に宛てた書簡を特別に見せていただきました。ご案内いただいた寺田寅彦記念館友の会の会長さん、文学館の主任学芸員さんに感謝いたします。そのほか、高知城と坂本龍馬記念館も見学し、今回も大変有意義な旅となりました。 鰹のタタキが高知の名物料理で、今回わら焼きの鰹のタタキを賞味、大ぶりでとても美味しかったですよ~。(了)
2023年11月15日
「謎のモニュメント」解決!
6月にご報告した「謎のモニュメント」の台座に刻まれていた「風さん風さん」につきまして、千葉大学名誉教授の佐藤宗子先生がその出典を見つけてくださいました。「馬の首」という三重吉による再話に出てくる王女が歌った歌でした。この童話は鈴木三重吉編『世界童話集』第7編(春陽堂、1918年)にあります。「赤い鳥」創刊の半年前に発行されました。(写真は茨城大学図書館所蔵の原本)
2023年11月7日 夏目漱石と野上豊一郎・野上弥生子展
漱石山房記念館の「夏目漱石と野上豊一郎・野上弥生子展」を参観してきました。野上豊一郎と弥生子はともに「赤い鳥」創刊に賛同し、豊一郎は6編、弥生子は5編の童話を寄稿しています。豊一郎は大学時代、さらに漱石山房の木曜会の常連として三重吉と親しく交流していました。漱石の弟子たちが謡(うたい)を披露する中、酔った三重吉がエンヤラ節(俗謡か?)を謡ったとか。三重吉が謡曲に慣れ親しんでいたという話は聞いたことがないので、これは苦し紛れの余興かもしれませんね。
2023年10月13日
林芙美子展
新宿歴史博物館で開催された林芙美子展を参観してきました。理由は、芙美子が「赤い鳥」と接点があったからです。
彼女の作品は、私の学生時代に「放浪記」を読んだ覚えがあるぐらいでしたが、この展示会をとおして今回あらためて彼女の波乱万丈の生涯に心を揺さぶられました。昭和の初めに単身シベリア経由でロンドン、パリを訪れ、半年近くも滞在したのはよほどの勇気と覚悟がいったものと想像しました。
展示には、「赤い鳥」への寄稿を承諾した芙美子に宛てた三重吉のお礼の手紙と彼女の童話「蛙」が掲載された「赤い鳥」(昭和11年8月号)が出されていました。この号は三重吉が亡くなった月に発行されたもので、「赤い鳥」の彼女の作品はこの一編しかありません。三重吉が長生きしていれば、彼女は宇野千代と並ぶ「赤い鳥」の常連作家になっていたかもしれません。
2023年6月14日
謎のモニュメント
坪田譲治のお孫さんのご案内で、目白駅近くの椿ホールの前に立っているモニュメントを見てきました。てっぺんには風見鶏を模した造形があり、なによりも驚いたのは、その台座に次の文言が刻印されていたことです。
「風さん風さん、
さあ来ておくれ。
この子の帽子を
とばしておくれ。
この子があわててかけ出して、
遠くにひろいに。行くひまに、
私にかみをゆわせておくれ。
鈴木三重吉 童話より」
実は、不勉強のせいか、わたしはこの詩を聞いた覚えがないのです。どなたかご存じの方がいらしたらどうか「お問い合せ」欄からご連絡いただければ嬉しく思います
2022年11月25日
深澤紅子野の花美術館 (軽井沢)
山形からの帰りに「赤い鳥」の挿絵画家、深澤省三先生と紅子夫人が避暑で過ごした軽井沢に寄り「深澤紅子野の花美術館」を訪れました。明治44年に建てられた軽井沢郵便局を移築したものを美術館にしたもので、これまたレトロの瀟洒な建物で、はるか遠くに浅間山連峰が望めます。深澤夫妻の出身地盛岡にも同名の美術館があり、そこに所蔵されている作品に劣らず、ここにも素晴らしい作品群がありました。館長様の丁寧なご案内もいただき、軽井沢の成り立ちについても大変勉強になりました。
2022年11月25日
金子ていの母校
11月24日、山形県の蔵王温泉へつながる県道の途中にある蔵王第二小学校を訪れました。盆地を眺望できる素晴らしい環境です。この前身の小学校は斎藤茂吉の母校でもあり、現在の小学校は金子ていという、「赤い鳥」に多くの自由詩を投稿して北原白秋に認められた少女詩人の母校です。校長先生のご案内で文学碑や校内にある斎藤茂吉と金子ていの展示コーナー(あかね館)を拝見しました。金子ていは、戦後は文部省婦人教育課の初代課長として、女性の社会人としての自立に尽くした異色の経歴の持ち主です。この事も最近知りました。
2022年11月10日
海達公子の生まれ育った町、荒尾市
熊本県荒尾市を訪ね、顕彰会会長及び荒尾市スタッフのご先導をいただいて、早逝の天才詩人少女、海達公子(かいたつ・きみこ)の詩碑を巡りました。彼女の投稿した自由詩は北原白秋に高く評価され、『赤い鳥』掲載の最多の数を誇っています。その風土の中で詠む詩は格別に深く心に響きました。そのほか、宮崎滔天(とうてん)の生家、熊本市の漱石の大江旧居、宮本武蔵の肖像画のある島田美術館など大変勉強になる旅でした。荒尾市のメロンパンはYouを日本に招待の番組にも登場。おいしかったですよー。